ブルース・リーと東洋の思想 その3。ブルース・リー/李小龍(1940~1973)のつづき。 参照:ブルース・リーと東洋の思想 その2。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5181/ 今日も『燃えよドラゴン/Enter the Dragon(1973)』から。現在巷で出回っているバージョンでは挿入されていますが、古いバージョンでは公開されなかったシーンなんだそうです。 Lee: Teacher?(先生。) Shaolin Abbott: I see your talents have gone beyond the mere physical level. Your skills are now at the point of spiritual insight. I have several questions. What is the highest technique you hope to achieve ?(私が見る限り、お前の技量はすでに身体的な域を超えて、精神における修養を要する域にさしかかっておる。そこでお前に問う。お前が望む最上の技量とは何だ?) Lee: To have no technique.(何の技も持たぬ事です。) Shaolin Abbott: Very good. What are your thoughts when facing an opponent ?(見事だ。お前は向かい合う相手に何を思う?) Lee: There is no opponent.(相手などという者はおりません。) Shaolin Abbott: And why is that ?(なぜ、そう思う?) Lee: Because the word "I" does not exist.(「私」というものは存在しないからです。) 参照:Bruce Lee "I Do Not Hit" Full Complete Scene http://www.youtube.com/watch?v=hhvBTy28VJM ・・・一応、少林寺での会話という設定なので、禅仏教を意識したセリフになっています。ブルース・リー自身がこの脚本に携わったものの、アメリカの観衆には理解されないだろうということでカットされてしまったようです。 ちなみに、この前半部分は、『マトリックス』のスプーン曲げのシーンに対応します。 Spoon boy: Do not try and bend the spoon. That's impossible. Instead only try to realize the truth.(スプーンを曲げようとしてはいけない。そんなことはできないよ。代わりに真実に気づこうとしなきゃ。) Neo: What truth?(真実?) Spoon boy: There is no spoon.(スプーンなんてない) Neo: There is no spoon?(スプーンがない?) Spoon boy: Then you'll see that it is not the spoon that bends, it is only yourself.(そうすれば、スプーンが曲がるんじゃなくて、自分自身が曲がるということに気づく。) 参照:There is no spoon https://www.youtube.com/watch?v=ZaJPNrf1DPY 参照:マトリックスと禅と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5054/ ま、江戸時代だったら猫でも言っていることです(笑)。 ≪猫云。「我あるが故に敵あり。我なければ敵なし。敵といふは、もと対侍の名也。陰陽水火の類のごとし、凡そ形象あるものは、かならず対するものあり。我心に象なければ、対するものなし。対するものなき時は、角ものなし。是を敵もなく、我もなしと云。物と我と共に忘れて、潭然として無事なる時は、和して一也。敵の形をやぶるといへども、我もしらず。しらざるにはあらず。此に念なく、感のままに動くのみ。」 参照:『田舎荘子』より「猫の妙術」。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5135/ Shaolin Abbott: So, continue...(続けてみよ。) Lee: A good fight should be like a small play, but played seriously. A good martial artist does not become tense, but ready. Not thinking, yet not dreaming. Ready for whatever may come. When the opponent expands, I contract. When he contracts, I expand. And when there is an opportunity, I do not hit. It hits all by itself.(優れた戦いはちっぽけな遊戯のようでありながら、真剣になされます。優れた武道家は、決して緊張することないものの全ての事象に備えています。思考することはなく、それでいて夢みることもない。敵が押してくるならば、私は引き、敵が引くのであれば、私は押します。そして機が熟したとき、私は打ち込むことをしません。“それ”が自ずと打ち込まれるのです。) Shaolin Abbott: Now, you must remember: the enemy has only images and illusions behind which he hides his true motives. Destroy the image and you will break the enemy.(よし。ならば憶えておくがよい。敵は背後に真意を隠したまま虚像として表れる。その虚像を撃て、さすれば敵は倒れる。) “And when there is an opportunity, I do not hit. It hits all by itself.”というところは、日本のもので言うと、宮本武蔵の『五輪書』にある「無念無相の打(むねんむそうのうち)」とか、オイゲン・へリゲルの『日本の弓術』などが参考になると思います。 『一 無念無相の打と云事。敵もうち出さんとし、我も打ださんとおもふとき、身もうつ身になり、心も打心になつて、手ハ、いつとなく、空より後ばやに強く打事、是無念無相とて、一大事の打也。此打、たび/\出合打也。能々ならひ得て、鍛錬有べき儀也。(宮本武蔵『五輪書』「水の巻」より)』 「無念無相の打」は、『五輪の書』では「一大事の打」として重要な打ち込みという位置づけがされているものです。「いつとなく、空(くう)より後ばやに強く打事」というのは、簡単に言うと「無私」の状態から放たれる「無心の一手」で、意識的なコントロール下で簡単にできる類のものではありません。『五輪書』で、武蔵は「今此書を作るといへども、佛法儒道の古語をもからず、軍記軍法のふるき事をも用ひず。」(同上「序の巻」)と記していますが、武蔵の理論体系は、彼の独創を差し引いたとしても、禅仏教や、老荘思想の影響は残ります。 『工錘旋而蓋規矩、指與物化、而不以心稽、故其靈臺一而不桎。忘足履之適也。忘要、帶之適也。知忘是非、心之適也。不?變、不外從、事會之適也。始乎適而未嘗不適者、忘適之適也。』(『荘子』達生 第十九) →工錘(こうすい)と言う名工は定規やコンパスなど使わずとも、真っ直ぐな線や真円を描くことができた。指が筆と一体となり、虚心のまま筆を進めることができたからだ。彼の心は一切の迷いがない。靴を履いている足の事を忘れるのは、足の型ににぴたりと合っているからだ。帯を締めている腰のあることを忘れるのは帯が腰の型にぴたりと合っているからだ。同じように、善悪・是非の判断を忘れているのは、心が自然と一つになるからだ。外物に振り回されないのは、内のありようと外のありようが逆らっておらず、安定していることにある。そして、自適の境地にから始まって、自適であるということすら意識しなくなる時こそ、本当の意味での忘我の境地といえる。 ・・・ブルース・リーの場合は、彼の師である詠春拳の達人、葉問から「無心であること」を学んだようです。ブルース・リーが披露したことで一躍有名になった“One Inch Punch(寸勁)”は、詠春拳から会得したものでしょう。 参照:ヒューマン ウェポン 世界の格闘技 カンフー 2/5 http://www.youtube.com/watch?v=cAqYsVaIHf4 One Inch Punch Documentary http://www.youtube.com/watch?v=Kx9iPFMriz0 ブルース・リーはまた、こんなことも言っています。 “Before I studied the art, a punch to me was just like a punch, a kick just like a kick. After I learned the art, a punch was no longer a punch, a kick no longer a kick. Now that I've understood the art, a punch is just like a punch, a kick just like a kick.”(Bruce Lee) →私が格闘技を学ぶ前、私にとってパンチは単なるパンチであり、キックは単なるキックだった。けれど、格闘技を学んだ後には、パンチはもはやパンチではなく、キックはもはやキックではなくなっていた。そして、格闘技とは何かを理解したとき、パンチは単なるパンチとなり、キックは単なるキックとなった。 ここは、青原惟信(せいげんいしん)禅師の有名な言葉から。 『老僧三十年前未參禪時、見山是山、見水是水、及至後來、親見知識、有箇入處、見山不是山、見水不是水、而今得箇休歇処、依前見山祇是山、見水祇是水。』(『五燈會元』巻十七) →三十年前老僧が未だ参禅しなかったころ、山を見るとこれ山、水を見るとこれ水であった。後に素晴らしい師とその知識に接し、得るところがあって山を見ると、山は山でなく、水を見ると、水は水ではなかった。今、休歇の処を得てその境地で見るに、山を見ればこれただ山であり、水を見ればただこれ水である。 ブルース・リーが創始した「ジークンドー/截拳道」を見るときにも大切なことだと思います。 『昔者荘周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與。不知周也。俄然覚、則遽遽然周也。 不知周之夢為胡蝶與、胡蝶之夢為周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。』(『荘子』 斉物論 第二) →昔、荘周という人が、胡蝶になる夢をみた。ひらひらゆらゆらと、夢の中では当たり前のように胡蝶になっていた。自分が荘周という人間だなんてすっかり忘れていた。ふと目覚めてみると、荘周に戻っているではないか。荘周が夢の中で胡蝶になったのか、胡蝶が荘周になった夢をみていたのか、分からない。荘周と胡蝶にはきっと区別があるだろう。これを「物化」という。 今日はこの辺で。 ジャンル別一覧
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